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朝鮮通信使の記念行事で賑わう、日東第一景勝地「鞆の浦」

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韓国留学の経験もある光元さんは昨今、ひび割れの目立つ日韓関係に胸が痛むという。
高飛車に角突き合わせる道とは別の、「信」を結びあった来し方を思い起こしてみる。

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徳川幕府は、「通商の国」と「通信の国」とを分けていたという。
貿易だけの国と一線を画すものは何か。
「信」すなわち信義にほかなるまい。
日韓関係の研究者も、朝鮮通信使の解説文では時に、「信(よしみ)を通じる」とルビを振る。

時は移り、通信販売、通信教育と「通信」天国の当世である。
居ながらにして、ともすれば指一本動かせば、事足りる。
ただし、肝心のよしみは通じているのやら、通じていないのやら。

朝鮮通信使の寄港先だった福山市鞆町、鞆の浦歴史民俗資料館に今、府中市に住む光元次夫さんの人形コレクションが並んでいる。
太鼓やラッパを奏でる楽士やひげを蓄えた高官など、張り子や焼き物などで出来た100点。
経由地からと遠く離れた東北産の人形も見える。
国中で話題を集めていた証しだろう。

鞆の浦では明日から2日間、通信使にまつわる催しがめじろ押しだ。
人形さながらに、あでやかな装束を市民らがまとう行列も出る。
春めく潮待ち港のの町がより一層、観光客でにぎわいそうだ。



【朝鮮通信使の歴史】TOMONOURA Chronicles 引用

日本へ派遣された李氏朝鮮(1392~1910)からの外交使節団の名称。朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。そもそもの趣旨は室町将軍からの使者と国書に対する返礼であり、永和元(1375)年、足利義満により派遣された日本国王使に対して、信を通わす使者として派遣されたのが始まりである。
15世紀半ばからしばらく途絶えたが、「朝鮮に出兵するか否かを確認」するため、豊臣秀吉に向けて派遣されている。(安土桃山時代)しかし、その後の文禄・慶長の役によって日朝間が国交断絶となったために中断されたが、その後、江戸時代に再開。
広義の意味では、室町時代から江戸時代にかけてのものすべてを指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。

将軍が交代したときの祝賀など、特別な理由がないかぎりはやって来ない。
20年以上ないこともざらだった。
それだけに、通信使を乗せた色鮮やかな異国船の来航時は、町をあげての大歓待。
その滞在中は祭りのような熱狂が続いた。
実際、道中にあたる港町にとつては、何十年に一度の大イベントだった。

<朝鮮通信使>
◎正使
◎副使
◎書記
◎通訳
◎書家
◎画家
◎僧侶
◎医師
など、総勢500人近くにもなる大人数。

きらびやかな異国の装束で練り歩く通信使の行列、国賓として通信使を招くからには、幕府側もその対応には神経を使い、その接待は、寄港地にあたる各藩が担当している。
鎖国時代、通信使の宿舎は、唯一の国際交流の場ともなった。先進文化や学術を吸収しようと、多くの人々がその宿舎を訪れ、使節団には書家や画家、詩人などの文化人や芸術家も多く含まれていたので、彼らの文化に面会を望む日本は多かった。

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