瀬戸内市の長島愛生園にある「十坪(とつぼ)住宅」をいかに残すか

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「焼トタンの家」の一節に<それらの家々は青空をば一層深くその透き通るような体躯(たいく)の中へと吸い取って>とある。

この島でお骨となった人たちも、青天に慰められる日々があったに違いない。

彼らの生き抜いた証しを全て残す潮目になるといい。

「民家」という言葉を広めたのは明治生まれの民俗学者、今和次郎(こん・わじろう)だそうだ。

たとえば「焼(やけ)トタンの家」を克明に記録する。

関東大震災の焦土のバラックであれ、愛ある言葉で言い表した。

まるで生き物のように。

和次郎の仕事が、先日開かれたハンセン病市民学会で引き合いに出された。

瀬戸内市の長島愛生園にある「十坪(とつぼ)住宅」をいかに残すか、話し合った折のことだ。

戦前建てられ、築70年を優に超す木造家屋も残るは5棟だけ。

それも、崩壊の際にある。

誤った隔離政策によって園内の人口が急増したため、考案された。六畳二間で何の装いもない。

広く寄付を募り、入所者が増築に増築を重ねた。

二つの療養所がある長島の世界文化遺産登録を目指し、登録有形文化財申請を手始めに策が練られる。

市民学会で「一点豪華主義ではなく」という注文が付いたのは、十坪住宅も忘れてはならぬという機運からだろう。

「焼トタンの家」の一節に<それらの家々は青空をば一層深くその透き通るような体躯(たいく)の中へと吸い取って>とある。

この島でお骨となった人たちも、青天に慰められる日々があったに違いない。

彼らの生き抜いた証しを全て残す潮目になるといい。

【長島愛生園歴史館】企画展 十坪(とつぼ)住宅をめぐる視線の詳細

十坪(とつぼ)住宅とは住居の建築資金を一般の寄付金に頼り、建築作業のほとんどは入所者が行い、完成すると国に寄付する、という一連の運動により長島愛生園に建てられた建造物です。

1931(昭和6)年、昭和恐慌による経済危機や、満州事変の勃発などが起きた時代。国の予算は経済対策や戦費に割かれ、政府は療養所へ十分な予算を捻出することが出来ず、新たな建物を建造する予算は確保されませんでした。

同じ頃から本格的に行われた「無癩(らい)県運動」では文字通り癩(患者)の無い県を目指し、療養所の医師達が各県で講演会を行い、ハンセン病の感染力と皇室のご仁慈、そして差別のない近代的な設備が整った療養所で生活することこそ患者のためだと喧伝しました。この考えは「救らい思想」と呼ばれ、広く社会に浸透し、この思想に共鳴したさまざまな団体や市民の多くは、善意で寄付を集め、長島愛生園に150棟もの住宅が寄贈されました。その一方、多くの患者は無癩県運動による偏見や差別により故郷を追われ、家族からも追われ、療養所へ入所せざるを得ませんでした。療養所では増え続ける入所者のため居住環境が貧しく、入所者の多くは十坪住宅などの共同住宅で生活しました。

すべての患者を強制隔離したい国の視線・・・

患者を救いたいという市民の視線・・・

隔離された入所者の視線・・・

そして少しでも良い住環境を得たいという入所者の視線・・・

その全ての視線が交錯したものが十坪住宅と言えます。

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